それは、夢なのか現実なのかよくわからない、不思議な出来事でした。
今思い返してみても、あの時起こった出来事は幻のように感じますし、
現実のようにも思えます。
…ただ一つ確かなこと。
俺は彼女の傍にいました。それだけは確かです。
夢想花
「ねぇ、ライアス君……。今夜は寂しいの……」
隣の未亡人が耳元で囁いた。
「私はね、ずっとアナタのことが……」
未亡人のその囁きに、ライアスのボルテージは上昇しっぱなしである。
鼻の下がすっかり伸びきっていた。
未亡人はライアスの腰に手を回す。
ぐぎゅる…………
腹の音。
ライアスは慌てて自分の腹を見る。
ぐぎゅるる……
頼むから黙ってくれ。
これではせっかくの雰囲気が台無しである。
ぐぎゅるるる……
「黙れって言ってるだろうがぁ!!」
「アンタが黙りなさいよ」
視線の先には未亡人はいなかった。
あるのはいつもと違わない少々散らかった我が家と、椅子に座っている見慣れた相棒だけだ。
夢、かぁ……。
ライアスはため息をつく。確かにあまりにも都合の良すぎるシチュエーションではあった。
「奥さん奥さん言ってたわよ。どんな夢見てたの?」
寝言まで口にしていたようだ。穴があったら入りたい。
「わかった!お隣の奥さんとあたしから惚れられてて、どちらにしようか禁断の愛。様々な困難を乗り切って、結局あた
しと結ばれるの」
「……後半部分はありえません」
「あたしだって御免だけど」
相棒の口走る夢のことを完全に否定できないところが悲しい。ただでさえ妄想癖がある上に劣情を抱きやすい年頃で
ある。
「…そうはっきりと言わないで下さいよ。で、何か依頼は来てますか?」
「ぜぇ〜ん然」
「そうですか……。日雇いでもするかどうか考えないといけませんねぇ…」
「あたしはか弱い女の子だから遠慮しとくわ。そう、か弱く繊細な乙女なの」
「よく言いますよ」
不景気である。正確に言うならばライアスの周りだけが。
ライアスとその相棒は二人で何でも屋を営んでいる。報酬さえもらえれば殺し以外はやってのけるのだ。
安全安心低料金がキャッチフレーズである。
だが、最近は客が来なくなって久しい。
ライアスは頭を掻きながら洗面所へと向かった。いつもかけている愛用の眼鏡をかけて。
護りたい人がいた。
自分のもとから離したくなかった。
離れたくなかった。
一度でも目を離せば、二度と見れなくなるような気がした。
ずっと一緒にいたかった。
ずっと一緒にいたかった。
「ライアス、お客さんよ。お茶持ってきて」
「了〜解」
久々の客である。ライアスは少々張り切っていた。勇んで台所へと足を運ぶ。
小さく汚い家であるが、何でも屋という仕事柄、一応応接間はしっかりと整えてあった。
「はじめまして。ファルミアと申します。今日はどのようなご用件でしょうか?」
ライアスの相棒―ファルミア―は極めて事務的にそう話す。
「前失礼しますね」
ライアスが客の前に小さな湯呑みを差し出す。中には安っぽい茶が入っている。
「ライアスです。はじめまして」
軽く挨拶をしたライアスは客の向かいに座る。ファルミアの隣だ。
「シャルドネと申します。よろしく」
客が妙に小さな声で喋った。
「早速ですが……本日はどのようなご用件でしょうか?」
「花を……摘んできていただきたいのですが」
「花?」
ライアスが怪訝そうな顔をする。
「夢想花。それを摘んできていただきたいのです」
聞いたことのない花である。
「期限は来月末まで。報酬はその時お渡しします。1万でいかがでしょう?」
「1万ですか……」
花を摘んでくるだけで1万である。相場のはるか上を行っていた。
虫のいい話ではあるが、これも金持ちの道楽であろう。
「了解しました。よろしければ連絡先など教えてはもらえないでしょうか?」
「一週間おきにこちらでお会いするということで…」
シャルドネはテーブルに置いてあるメモ用紙に住所らしい文字を書き連ねる。
ファルミアがそれを受け取った。
「依頼内容の確認ですが、夢想花という花を来月末までに摘んでくる。報酬は1万。一週間おきにこちらの住所で会う。
これで相違ありませんね?」
「はい」
「わかりました。最善を尽くさせていただきます。それでは、一週間後にまたお会いしましょう」
ライアスとファルミアは椅子から立ち上がり、シャルドネを見送った。
「…ところでファルミアさん、夢想花ってどんな花かわかりますか?」
「知らないわよ」
「ファルミアさんもですか。……ま、なんとかなるでしょ」
ライアスはあくまでも脳天気に構えるつもりであった。
『強くなりたいの…?』
女はそう告げた。
強くなりたかった。
少しでもいいから、とにかく強くなりたかった。
護りたかった人を護れなかった自分が、許せなかった。
ライアスの横には何冊もの本が積み重なっていた。いずれも植物関係の本である。
ライアスのページを捲る手が止まる。ため息と共に本を横に積んだ。
もうこれで8冊目である。どの本にも『夢想花』という項目はなかった。
とりあえずこの積み重なっている本を何とかしよう。
ライアスは本を元の場所に戻しに歩いていった。
ここニーベル図書館の蔵書量は5万冊。フィツール地方でも指折りの図書館である。ちなみに一部古文書が混ざって
いる。
『植物』と書かれた棚に先ほど読んだ本をしまい、また新しく5冊ほど手に取った。
ライアスはとりあえず字は読める。彼はあまり学があるほうではないのだが、読み書きと四則計算程度はできた。
目が悪いのはたまに物凄く熱中して本を読みまくるからであり、現在かけている眼鏡の度はあまり強くない。
頬杖をついて再び読書を始めた。もうすぐ閉館時間である。あまり時間は残されていない。
朝からずっと入り浸っているが、不思議と空腹感は覚えなかった。
ライアスは一度熱中すると他のことが目に入らなくなるタイプであり、調べ物には適任であった。
目次に軽く目を通した後、ページを捲り始めた。
外はもう日が暮れ始めていた。
『ずっと傍にいてね』
彼女は自分の肩に頭を預けて呟いた。
『大丈夫。俺が護るさ』
彼女の髪をそっと撫でる。さらさらとした感触が手に心地よかった。
このまま時が止まってほしかった。
『…約束して。もし離れ離れになったら……』
目が覚めた。
目頭を擦りながら窓まで歩く。
外はまだ薄暗かったが、影の色は紫色で、陽が昇りかけていることを示していた。
何故今頃あの時のことを思い出したのだろう。
ライアスは瞳にぼんやりと映る輪郭を鬱陶しそうに眼鏡をかける。
輪郭の形がはっきりと瞳に入ってきた。
窓から目をそむけると、相棒の寝顔が見えた。昨晩はいなかったのだが。
「朝帰りですか?」
ライアスは小さく囁く。
普段は面倒な相棒である。働き者な訳でなく、いつも厄介な仕事を持ってくる。
が、裏ではいつも何かやっているのだ。
自分には知られぬようにやっているのだろうが、たまに解る。
今日も枕元に一冊の本が置いてあった。
表記が古代語なのでなんという本なのかはわからない。
だが、今回の依頼絡みの本なのだろう。確証はできないが、なんとなくそんな気がする。
「風邪ひきますよ」
ファルミアの体から離れた布団をかけ直し、自分も再び布団の中に入っていった。
一週間が経った。
依頼主が指定してきた住所にライアスは一人足を運ぶ。
ファルミアは急用が出来たらしく、朝から留守にしていた。
人気のない場所だ。ここで何かされても他人はわからないだろう。
ライアスは気を引き締める。
十分ほどしてシャルドネが歩いてきた。
この前と同じように、顔を黒いヴェールで覆っている。
「…進捗状況は?」
妙に小声である。聞き取るのに苦労するほど。
「いえ、まだ手がかりすらほとんど」
「そうですか」
「まだ時間はあります。あまりお急ぎになられないように」
シャルドネは聞き取れないほどの小声で喋る。
黒ずくめの衣装がどことなく怪しかった。
動けなかった。
悔しいほどに体が動かなかった。
『ずっと傍にいる』
そう約束したのに。
『俺が護る』
そう約束したのに。
跳ね起きた。
背中にびっしょりと汗をかいている。
まだ暗い。時計の文字盤も見えないほどに。
ライアスは深呼吸をする。
これで何度目だろうか。あの時の夢を見るのは。
何かがおかしい。
今まであの時の夢を見たことなんか無いのに。無理矢理忘れようとしていた記憶なのに。
あの女と出会ってから、自分の中の何かが狂い始めていた。
眠れないし、食欲も無い。
何が起こっているというのだろうか。
「……ライアス」
「…どうかしましたか」
「…アナタに教えようか迷ってたんだけど、あんまりアナタが疲れてるから、教えるわ」
シャルドネが指定した場所に二人はいた。
相変わらず人気の無い場所である。
「あの人は……」
「お待たせしました」
ファルミアの言葉を遮るようにシャルドネが歩いてくる。今日は黒ずくめの装束ではない。声も大きい。
おぼろげに顔が見えた。まだ若い。
『ずっと傍にいて』
「進捗状況はどうでしょうか…?」
ライアスはすぐさま顔を伏せる。
女の顔を直視することができなかった。
「まだだというのなら、急かしません」
背中に冷汗が流れる。
「……ライアスさん」
動けない。
「どうかしましたか?」
「い、いえ……。なんでもありません……」
そう搾り出すのが精一杯だった。
手が震える。
「ご自愛くださいね」
シャルドネが去っていった。
ライアスは俯いたまま顔を上げることが出来なかった。
『…傍に…いて』
何で俺はあの時動けなかったんだろう。
『お願い……』
何で俺はあの時傍にいてやれなかったのだろう。
『こんなの……嫌だよ……』
何で俺の手には力が無かったのだろう。
『お願い……。傍にいて……』
何で俺は彼女の手を握るだけだったのだろう。
5日が過ぎた。
ライアスは明らかにやつれていた。
シャルドネと会ったあの日から。
もうこれ以上放っておくわけにはいかない。
「ライアス。しっかりしなさい」
「……ファルミアさん……」
「夢は夢。現実は夢とは違う。アナタが何にうなされているのかは解らない。でも、この依頼をやり遂げるには、アナタが
必要なのよ」
「依頼を……やり遂げる……?」
「あたしは調べたわ。夢想花って何かって」
ファルミアが一枚のメモ用紙をライアスの前に差し出した。
「見たら解ると思うけど、花の名前じゃないわ」
「…じゃあ、何なんですか……?」
「死者に送る、別れの花」
「別れの花……?」
ライアスにとってこのことは寝耳に水であった。全く想像もしていなかった答えである。
「死者が死後の世界でも寂しがらないように、死後という夢の世界で寂しがらないようにね」
「……じゃあ……」
「あの人とアナタがどういった関係なのかは解らないわ。でも、知っている人なんでしょ?」
「確かに……知ってる人ですけど……」
「シャルドネ本人はもう生きてはいないわ。1ヶ月前に死んでいるから」
「じゃあやっぱり……」
「あの人は何者かが騙っているだけ」
これで確信がもてた。
あの女に酷似したシャルドネという女の正体が。
「一つ聞いていい?」
「…何ですか?」
「あの女と昔何かあったの?」
「……答えないとダメですか?」
「ううん。無理はしなくていいわ。どうせ暗〜い話なんでしょ?」
ファルミアがうんざりだ、といった感じで手を振る。
「とにかく、あの人が欲しがっていた花を贈るのよ。そういう風習なんだから」
「欲しがっていた花……」
「ここからはアナタの仕事。頑張ってね」
ロゼ。
自分の初恋の人。初めて自分のものにしたいと思った人。
そして、護ることが出来なかった人。
1年前、自分の目の前で彼女を失った。
強くなりたいと願い続けたのはそれからだ。
ロゼは何を求めていたのだろう。
花なのか?
……違う。花を求めている訳じゃない。
じゃあ何を求めているのか……?
自分が彼女にしてやれなかったこと。
あの人が本当にロゼだったのなら、今こそあの時してやれなかったことをやるだけだ。
シャルドネが歩いてきた。
今日は黒ずくめの装束を身に纏っている。
ライアスは一人シャルドネのもとに歩いていく。
「……つかぬことをお聞きします。貴女は……」
そのままヴェールをはぐる。
「…ロゼ…なのですか……?」
少々痩せ気味の女。青い瞳と赤い髪。よく知る顔と瓜二つであった。
「……うん。ようやく気付いてくれたね……」
「…どうして」
聞こうと思った。
だが、止めた。
「……ごめん。俺はあの時……」
ライアスはロゼの傍に近寄っていく。
「傍にいてやることが出来なかった……」
そのまま抱きしめる。
「約束したのに…。傍にいるって。護ってやるって」
ずっと後悔していた。
後悔したことで何になる訳ではない。
だが、その事はずっと心を縛っていた。
「…ううん。いいの」
ロゼが小さく囁く。
「今、こうして傍にいてくれてるから…」
目頭が熱くなるのを覚えた。
「謝らなくていいよ……」
春先の優しい風が吹く。ライアスの青い髪がなびく。
ロゼの髪を撫でる。
このまま時が止まってほしかった。
あの時は自分の力不足で彼女を失った。
魔物に襲われる彼女を救うことが出来なかった。
自分も負傷していたとはいえ、彼女の傍に行くことが出来なかった。
だけど、今は違う。
自分は強くなった。次こそ護ってみせる。傍にいてみせる。
「気付いてくれてよかった…。これで私も……」
ライアスの腰に回っていたロゼの腕がほどかれる。
「ごめんね、タダ働きさせちゃって」
まさか。
「ライアスに会いたかったから…。傍に来てほしかったから……」
確かに抱きしめていたはずのロゼの体はいつの間にか自分の腕の中から外れていた。
「私はルールを破ったの。だけど、もう行かなきゃ」
嫌だ。
また俺はロゼを失うのか。
「ありがとう。ライアスのこと…絶対に忘れない」
ロゼの体が少しずつ消えていく。
動けなかった。
ただその光景を見ているだけだった。
あの時と全く同じだった。
何もできない。
「ロゼ……」
「きっとまた誰かを愛し、愛されるはず…。そうなったら、幸せでいてね……」
ロゼの姿はもう見えない。何が起こっているのか。
そもそも、これは現実なのか。ただの夢想なのか。
「幸せになってね……」
風。
辺りには何もなかった。誰もいなかった。
ただ一輪の薔薇色の花を除いて。
「いい加減に起きなさいよ。あたしはお腹が空いたの」
ファルミアの声。
ライアスはゆっくりと身を起こす。
「……あれ? 俺は何でここに……」
「は? 何言ってるの?」
「夢なのか……?」
ライアスは目をこすり、眼鏡をかける。
今まで自分が見てきたことは夢だったのだろうか。
だとしたら、不思議な夢だ。
「早くご飯作ってよ。もうお昼よ」
「はいはい」
寝癖を直さないままライアスは台所に向かう。
あの一連の出来事は夢だったのだろうか。
ロゼと会った、あの出来事は。
ふと応接間に目が行った。花瓶に一輪の花が活けてある。
ファルミアが活けたのか。珍しいことを。
色は薔薇色。
薔薇色。
「……ロゼ……?」
あの夢で見た花。
もうあの事が夢なのか現実だったのかはどうでもいい。
ロゼはここにいるのだ。
ライアスは目線を元に戻して、台所に足を進めた。
薔薇色の花を背にして。
久しぶりの短編です。
オエビとキャラが違うことはスルーでお願いします……。
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