その町は、海と山に挟まれた小さく貧しい町だった。
若く優秀な者は皆この町を後にする。
この町に残っていても得るものは何もない。
必然的に、この町に残る者は何もできない落ちこぼれ、若しくは訳ありの者となる。
この町で得られる物は、何もなかった。
しあわせのかたち
少女。
茶色の長髪に群青色の瞳。ぼろきれのような衣服を身に纏い、甲斐甲斐しく薪を集めている。
よく見れば、なかなかの器量よしであることがわかった。まともな服を着、身体を綺麗にすれば、都でも十分に通用する
ようだ。
名はエリオット。周りからはエルと呼ばれている。
「エル、まだ兄さんは帰ってこないのかい?」
薪を抱えて家路を辿っていると、近所の中年女性が話しかけてきた。この女は男に何度も騙されここに流れ着いてきた
女だ。こういう女がこの町の女の大半を占める。
「うん…」
エリオットが俯く。気を抜いたのか、薪が地面に落ちた。慌てて拾い集める。
「帰ってきたなら一言言っといてよ。あまり無茶するなって」
「うん」
エリオットは薪を重そうに抱え、乾いた風が吹く通りをゆっくりと歩く。
まだ陽は高い。だが、通りには全く活気がなかった。ふと目線を横にやってみれば、餓死寸前の浮浪者がうずくまって
いる。
見なかったことにしよう。
エリオットは再び正面を見据え、ゆっくりと足を進める。この町に流れる時間は遅く、急ぐことはない。
口を開けばため息が出るので滅多に口は開かない。これ以上陰気にはなりたくなかった。
ふと薪が取り上げられる。エリオットは背中越しに後ろを睨んだ。
頭上には自分によく似た男が立っている。
「お兄ちゃん……?」
「ただいま。ま〜たよく集めたなぁ。重かっただろ?」
兄が左手でエリオットの頭を軽く撫でる。大きな手。
「いい子にしてたか? 土産も買ってきてるから、早く帰ろうな」
「うんッ!」
兄はそのまま手をおろし、エリオットはその手を握り締める。
大きくてごつごつした手。華奢そうな顔立ちとは対照的だ。
兄妹はそのまま家路を辿った。
「狭いながらも楽しい我が家って、よく言ったもんだなぁ。やっぱりここが一番落ち着くよ」
兄は荷物を置くと、さっそく横になった。荷物の中から杖が覗く。
「お仕事どうだった? きつかった?」
「いいや。今回は今までで一番楽勝だったよ。杖見てみろよ。傷ないだろ?」
エリオットが荷物から覗いていた杖を手に取る。蒼い宝玉―実際は単なるガラス玉だが―が綺麗な杖だ。
「ほんとだ。この前見たときと全然変わんないね」
彼女はそのまま杖を伸ばす。中からは刃物が顔を出した。
兄は暗殺で生計を立てている。別に悪く言う者はいない。この町で暮らしていくには“悪”に手を染めねば暮らせないか
らだ。
たまにふらっと出かけては、ふらっと戻ってくる。その時はいつも大金を手にしていた。それなりに優秀なのだろう。
しかし、エリオットは後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
兄のことは嫌いではない。むしろ大好きである。だからこそ大好きな兄が人を殺して金を得るようなことをしているのを
見るのは耐えられない。
だけど、兄は自分のために暗殺者をやっているのだ。エリオットはまだ12歳だが、聡明である。そのことは理解してい
た。
決して自分から人を殺すような人じゃない。それは他ならぬ自分がよく知っている。
兄は自分のために悪人になっている。そのことも理解していた。
どうすればいいんだろう。
エリオットはずっと考えていた。しかし、子供の頭では答を出すことはできなかった。
そんなエリオットの気持ちを察してか、兄も最近は仕事を控えていた。
エリオットは泥まみれになりながら走っていた。背中には大根が7本ほど入った篭を背負っている。
いつまでも兄に頼るわけにはいかない。これ以上兄に人殺しをしてほしくない。
その一心で、エリオットは山畑に野菜を盗みに行ったのだ。もちろん、売るためにである。
この町のことだ。ばれたら半殺しにされる。その事は十分にわかっている。
ばれないかどうか、怯えながらもエリオットは大根を売りきった。
いくらかの小銭が掌の中にある。
嬉しかった。
これでお兄ちゃんの好きな魚が買える。
兄の喜ぶ顔が目に浮かんだ。それだけでエリオットは上機嫌になる。
「ただいまッ!!」
「ん? 上機嫌じゃんか。どうかした…って、すんげー汚れてるな……」
「えへへ……。レディは秘密の一つや二つ、持ってるんだよ」
「レディって言える顔かよ…。ほれ、タオル」
エリオットが兄の投げたタオルを受け取る。入口の側にあった水瓶で顔を洗う。
「ね、ね、お買い物行こ!!」
エリオットはタオルをそこら辺に投げ捨てると、兄の袖を引っ張る。
「何だ、どうした? 何やった?」
「えっと……」
少々言い辛い。
「…ま、深くは聞かないけどな」
兄は読んでいた本を伏せる。実はこの町には珍しい結構な読書家であるのだ。
「エル、幸せって、なんだろうな」
「へ?」
「俺は金持ちをよく知っている。胸を張れない商売で金を稼いだ奴らは皆ネズミみたいにビクビク怯えてる。それだけは
ごめんだ」
兄の言っている事は少し理解できた。
「だから俺はあまり無茶はしない。有名にはなれなくてもいい。この町で、お前と暮らせてれば十分だ」
「お兄ちゃん」
「無茶はしないでいい。人間ってのはな、少しの米と魚と、本を読めるだけのスペースがあれば十分生きていけるんだ。
少なくとも、俺はそう思う」
「……」
「じゃ、行くか。お前の奢りで、だろ?」
ハイランド重臣の暗殺。
依頼主が差し出した文書にはそう書かれていた。
「……断る」
エリオットの兄はつっけんどんにそう答える。
「何を仰る。貴方ほどの腕があれば楽勝な仕事ではありませんか」
「俺は危ない橋を渡る気はない。もししくじった俺を待つものは死。そして成功した俺を待つものは嫉妬」
兄は欲を出しすぎて滅んでいった暗殺者をよく知っている。腕に似合わぬ名声を得た暗殺者の末路は死。
「とにかく、俺に回してくれる依頼は商人の暗殺程度で構わない。この手の依頼はもっと腕の立つ奴に回してくれ」
兄はイライラしながら席を立った。
前々から言っていたことだ。それを未だに覚えていない。むかっ腹が立つ。
扉を背にした途端、兄の体に激痛が走った。ゆっくりと振り返る。
背中がぱっくりと裂けているのがかろうじて見えた。人間の気配は依頼主以外にない。
「…貴様、術士か……!!」
「この依頼は決して他言されてはならないのでね。断った貴様が誰かにタレこむかもしれん」
依頼主が指を鳴らす。左足が裂ける。部屋の中はもう滅茶苦茶であった。
「まぁ、成功した後にタレこまれるかもわからん。どちらにせよ、貴様の口は封じるのだが」
指を鳴らす。胸が裂ける。
兄は懸命に壁際に立てかけてある仕込み杖に手を伸ばす。
「残念」
指を擦りあわせた乾いた音が聞こえる。仕込み杖に伸ばしていた右手がやられる。
この男は風術士であった。兄の体を切り裂いているのはカマイタチの一種である。
術士相手に正面からはかなり無理がある。現に彼は何もできずにただいたぶられているだけであった。
なんで俺がこんな目に。
兄は薄れゆく意識の中で、ただその事を考えていた。
俺はただ幸せに暮らしたかった。貧乏でもいい。愛する妹と幸せに暮らしたかった。
それが、なんでこんな目にあわなければならないんだ。
罰なのか。
それなら目の前のこの男には何も罰はないというのか。
崩れ落ちる兄を尻目に、依頼主は部屋を出た。
汚い家である。依頼主は埃を振り払うような動作をとりながら玄関へと向かう。
玄関を開けるとそこには少女がいた。エリオットである。
エリオットと依頼主はすれ違う。
様子がおかしい。
エリオットは奥の部屋を開けた。
依頼主は懐から一枚の札を取り出す。
「妹さんと仲良くな」
そう呟いた依頼主は札を後方に投げた。札は吸い込まれるように兄の家へと貼りついた。刹那、札から炎があがりは
じめる。術を封じた札である。
それは今までに見たことのない惨状だった。
部屋一面に血糊が飛び散っている。そして、足元には変わり果てた兄が倒れていた。
不思議と吐き気はなかった。
そっとエリオットは兄の頬を撫でる。血糊が指先に付いた。
どうして。
何度もエリオットは兄の頬を撫で続けた。
どうしてお兄ちゃんが―。
不思議と涙も湧いてこなかった。
手には仕込み杖は握られていない。おそらく仕込み杖に手を伸ばす前に息を引き取ったのであろう。
『俺は無茶はしない。お前と暮らしていければそれでいい』
兄はそういう人であった。暗殺者という肩書きには似合わないほどの無欲な男だった。
背中が熱い。
ふと振り返ると、背後には赤々と燃える炎があった。
エリオットは聡い。すぐにこの状況を把握した。
「ありがとう、お兄ちゃん。今まで働いたぶん、ゆっくり休んでね……」
物言わぬ兄に対してそう声をかけた後、兄の形見である仕込み杖を手に取った。
「エルの幸せ……。それはもうわかんない。だけど、今のエルの生きがいは……」
エリオットは生まれ育った町を後にした。
炎。陰気な面をした壮年の男。そして物言わぬ姿となった兄。
全てが彼女の脳裏にはっきりと鮮明に焼きついている。
復讐。
兄と同じ痛みを味あわせてやる。
火の気は辺りに全然なかったから、あの炎は「じゅつ」なんだろう。
なら。
なら。
思いがけずに続き物になってしまいました。
西原理恵子「ぼくんち」に強く影響を受けています。
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